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藤田敦史監督の評判や大八木弘明監督との関係は?

藤田敦史監督 スポーツ

平成の常勝軍団から令和の常勝軍団へ。

2022年度に駒澤大学が大学駅伝三冠を達成したことは記憶に新しいかと思いますが、2023年度から大八木弘明さんから藤田敦史さんへと監督が交代となったことも話題となりました。

代名詞ともいえる「漢だろ!」の激しい掛け声などで知られる大八木さんから、対話重視の藤田さんへのタスキリレー。

異なるイメージが先行しがちかもしれませんが、実際に今の駒澤大学の雰囲気はどんな感じなのか、気になるところですよね。

今回はその藤田敦史新監督を軸に、大八木さんとの関係などにも触れながら掘り下げていきたいと思います。

 

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藤田敦史監督の評判はどう?

藤田さんが監督に就任してからまだ日が浅いため、評判についてはこれからといったところが現状です。

ただ、藤田監督がどのような方針で指導をするのかは、いくつかのスポーツ紙の記事などで触れることが出来るので、そこから評判を窺い知ることも出来ます。

 

藤田さんが選手との話を重視するという方針を取っているのは、他ならぬ大八木さんの存在があったからです。

大八木さんは、藤田敦史さんが大学1年生で入学してきた1995年4月に、駒澤大学のコーチに就任されています。

藤田監督は当時のことを振り返って、

「当時の大八木はぐいぐい自分がチームをひっぱって、我々も言われたことに従ってやるだけでした。」(読売新聞より引用)

とコメントしていますが、後に藤田監督がコーチとして駒澤大学へ戻ってきた際には大八木さんの変貌ぶりに驚いたそうです。

 

大八木さんは自らの変化を、

「コミュニケーションを取りながらやる時代だと思います。選手が自分の中でしっかり決めることが大事。」(スポーツ報知より引用)

と仰っています。そして藤田監督も、

「これだけ実績を積み重ねてきた指導者が、結果が少しでも出なくなったときに、見直してガラッと変える。この決断は、なかなかできない。ずっと常勝軍団で来た人間が目線を下げて、生徒の立場に立って考えることができる。」(スポーツ報知より引用)

と感銘を受けています。

選手として、コーチとして、常に大八木さんの姿を見てきただけに、その時代ごとに合わせた変化に対応する姿勢もまた大きな影響を受けていることでしょう。

 

先日、京都で行われた第100回箱根駅伝シンポジウムでも、大八木さんは自分は昔と比べて本当に優しくなったと言われていました。

昔はとにかく上から押さえつけて、選手は監督の言う通りにすればいい!というスタンスだったのが、今は子供よりも歳の離れた選手たちが可愛くて仕方ないそうで、選手たちの自主性を重んじているようでした。

大八木さんがよく駒沢大の選手のことを「子供たち」と表現しているのは、そういった愛情から来るものなんでしょうね。

「田澤(廉)なんか、タメ口で話しかけてくるんだよ!」なんて笑いながら仰っていましたが、それだけ監督が選手に寄り添い、近い存在になったという表れなのでしょう。

 

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藤田敦史監督と大八木弘明監督との関係は?

監督に指名された理由は定かではありませんが、お二人の関係性を見るに、藤田監督が大八木さんの後を受け継いだのは必然だったと思います

上記の通り、藤田監督は大八木さんの元で選手として、コーチとして長年師弟関係にあり、活躍されてきました。

 

藤田監督は選手としての現役引退後、2013年4月より富士通で指導者としてのキャリアをスタートさせていますが、2015年4月より出向という形で駒澤大学のコーチに就任されています。

以来7年にわたり大八木さんの指導を一番間近で見てきた人物と言えます。

そしてご自身が選手だった時と併せると、大八木さんの変化を最も見てきた人物でもあります。

また、藤田監督は「いつかは大学の指導者になりたいと思っていた。」と語っており、ちょうどいいタイミングだったのではないでしょうか。

 

藤田監督は富士通のコーチ時代に、選手たちが自分で考えることが出来ないことを嘆いていました。

それでいて集まってくる選手は、大学ではいわば「エースで四番」的な存在だったため、人の言うことを聞こうとしない。

そういう意識を変えられるデッドラインが大学生なのではないかと仰っています。

 

藤田監督も大八木さん同様に「自分で考えること」の重要性を説いています。

答えを安易に求めてくる選手は多いようですが、そこで回答を出すと選手は考えることをしなくなる。

そのため藤田監督はまずはヒントを与えて考えさせることから始めているそうです。

大八木さんも練習メニューをあえて複数提示して、選手に選ばせることをしていますが、こうした指導方針の合致も、藤田監督を後継者として指名した理由の一つかと思われます。

 

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藤田敦史監督の高校はどこ?キャリアが知りたい

藤田監督は福島県の清陵情報高校から駒澤大学へ進学し、卒業後は富士通の実業団選手として競技を続けていらっしゃいました。

高校時代は5000mが14分56秒台と、かろうじて15分を切る選手だったそうです。

ですが、当時の藤田監督は貧血に悩まされており、力をなかなか発揮できない状態でした。

 

大学入学後に食生活の改善などもあり、1年生の夏以降は急激な成長を見せます。

箱根駅伝では1年生の時から出場し、1区区間2位。

区間賞を取った亜細亜大学のビズネ・ヤエ・トゥーラ選手と先頭争いを繰り広げたところから、藤田監督の知名度は一気に上がりました。

2年、3年次には花の2区を任されており、ことロードでの走り、勝負強さが光っていました。

関東インカレや日本インカレでは、ハーフマラソンで敵なしの状態。

4年次の箱根駅伝こそ不調で4区に回りましたが、そこでも区間新記録の走りでトップに立つなど、安定して4年間活躍されています。

 

そして大学卒業目前3月のびわ湖毎日マラソンでは、当時の日本学生新記録となる2時間10分07秒をマーク。

同年の世界選手権(スペインのセビリアで開催)代表に選出され、そこでは足底を痛めてあまり調子が上がらない中で6位入賞を果たします。

翌年のシドニーオリンピックの出場は出来なかったものの、同年の12月の福岡国際マラソンではそのシドニーでマラソン金メダリストとなったゲザハン・アベラ選手をラスト5kmのロングスパートで置き去りにし、日本最高記録となる2時間6分51秒で優勝。

この記録は同年の世界ランキング2位の記録で、前途は明るいものと見られていました。

 

しかしその後は、度重なる故障などの影響もあり、レースには出場するものの、日本記録、世界記録を出すといったレベルには至らず、2013年の長野マラソンを最後に引退されました。

オリンピックの日本代表こそ逃しましたが、上記のアベラ選手を突き放すロングスパートに日本マラソン界の未来を夢見た方々は多いと思います。それほど強烈なインパクトを残すレースでした。

藤田監督は自身を振り返って、「自分には瀬古(利彦)さんのようなラスト勝負で勝てるスピードはない。ならどうやって勝つかを考えた時にラスト5kmでのロングスパートしかない。」と自分をしっかり分析したうえでレース、練習に取り組んでいたとのことです。

 

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藤田敦史監督まとめ

藤田監督の最大の強みは「自分を知る」ということを長年経験していることです。

自分自身を実験台にして、色々なことを自分で試してみるのが好きだったそうで、言われるがままに練習をただこなしているだけでは、本当の強さは身に付かないことを知っているのでしょう。

だからこそ選手には「自分で考えること」を求めていますし、自分で考える力がより密度の高いコミュニケーションを生み、対話を生みます。

それが駒澤大学の強さに繋がっていると思われます。

大学時代は考える力を培って、それを温めて、「実業団に行ったらああいうことをやるんだ、こういうことをやるんだ。」という思いをため込む時期だとも仰っています。

それが出来た人間が、環境の整った実業団へ行っても活躍できる選手になるとのことでした。

 

駒澤大学の選手たちは箱根駅伝以降もハーフマラソンやトラックで好成績、好記録を連発しています。

実業団選手に比べると授業などもあり制約の多い大学生ではありますが、意識を変えるデッドラインにいるであろう選手たちと、藤田監督の今後の手腕に注目です。

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